第2期医薬安全性研究会

Japanese Society for Biopharmaceutical Statistics - Since 1979 (1st 1979~2007, 2nd 2007~)

読み散らされる書物たち

好きな本を読む時間がとれなくなって久しい。気が付くと帰宅は夜の10時。机に向かってさて、本でも読むか、という頃には11時を過ぎる。と言って、激務に明け暮れているのではない。夕方からは数学工房のセミナーや会議、研究会に当てられるだけのことだ。終れば呑みに行くことも多い。過労死する気遣いはない。

しかし、本を読む時間がきれぎれにしかとれないことには変わりない。勢い私の最近の読書は、数頁読んでは、パタンと本を閉じることが多い。1冊をじっくり読む状態ではないので、あれこれの本を読み散らすばかりである。

今回はそうして読み散らしては、スピーカーの上や、カラーボックスの上に積み上げられている本たちとの淡い付き合いを紹介しよう。

『声に出して読みたい日本語』(齋藤孝、草思社、2001)はブームになってから購入したので、既に17刷になっていた。今までなら本に載らない、しかしどこかで聞き覚えた名文句を、歌舞伎、落語、売り口上……まで集めて、訳と解説を付けたアンソロジー。ちょぼちょぼ読むのにふさわしく、私は、そうした。気が向いたときに、1節、1節と読むから、このほど読み終えるまでに3年かかってしまった。おなじみの名句を手軽に読めるのが楽しかった。声に出すかどうかは、読者の勝手。


てまえ持ちいだしたるは、四六のがまだ。四六、五六はどこでわかる。前足の指が四本、あと足の指が六本、これを名づけて四六のがま。このがまの棲めるところは、これよりはるーか北にあたる、筑波山のふもとにて、おんばこというつゆ草を食らう。このがまのとれるのは、五月に八月に十月、これを名づけて五八十は四六のがまだ、お立ちあい。…

『森茉莉全集 第3巻』(筑摩書房、1993)も、少しずつ読んでいる。森鴎外の娘で作家である作者のエッセイ集をまとめた1冊。何故、そんな本が私の机上にあるのか。ずっと前に本屋で見つけたとき、何となく手に取って、パラパラとめくってみると『私の美の世界』の冒頭のエッセイ「料理と私」の文章が素晴らしく豪華で、衝動買いしてしまったと記憶する。


猫じゃらしの穂を扱いた御飯に、白木蓮の花片を細かく叩いて丸めた挽肉料理、紅い鳳仙花を絞った葡萄酒、なぞを並べ、「三越」(昔あった雑誌)の色刷り頁を参考にし、与謝野晶子氏に戴いた千代紙(それは極上の和紙に刷った大判の美しいもの)を真似たりして、色鉛筆で染めた友禅の着物に、鶸色無地の折紙の帯の、紙人形の令嬢がお客、という、豪華版のままごとを楽しんだ昔から、私は料理を創ることが好きだったようだ。

手料理や、お菓子、服装、身の回りの品々や、交流していた室生犀星や三島由紀夫などの人物デッサンで埋め尽くされた1冊は、雑誌連載が基になっているために、1篇1篇が見開き2頁に収まっているので、気が向いたら数頁読むのにピッタリなのだ。身近な題材を反俗的姿勢で書き留めていくのが、個性である。過日フジTVの「トリビアの泉」で、「鴎外は饅頭を白米にのせて、煎茶で茶漬けにして食べた」という問題の出典は、本書に収録されている『記憶の絵』の中の「鴎外の味覚」に紹介されているエピソードである。


その饅頭を父は象牙色で爪の白い、綺麗な掌で二つに割り、それを又四つ位に割って御飯の上にのせ、煎茶をかけて美味しそうにたべた。饅頭の茶漬のときには煎茶を母に注文した。子供たちは争って父にならって、同じようにしてたべた。薄紫色の品のいい甘みの餡と、香りのいい青い茶<父親は煎茶を青い分の茶と言っていて、母も私たちもそう言うようになっている>とが溶け合う中の、一等米の白い飯はさらさらとして、美味しかった。

『萬葉集』もゆっくりと愛読している1冊。本書について多言は不要である。ようやく第八巻まできた。ここは、後の古今和歌集の萌芽と言える歌を春夏秋冬の四季に分け、それぞれをさらに雑歌と相聞に分ける部立をとっている。巻頭はあの志貴皇子の


石走る 垂水の上の さわらびの萌え出づる春に なりにけるかも

類型的な歌も多いが、それは8世紀の時代に、既に高度な編集センスが働いていた、ということであって、興味深く読んでいる。と言っても、少しずつだが。(新潮日本古典集成『萬葉集』二)


霞立つ 春日の里の梅の花 山のあらしに 散りこすなゆめ

そうこうしているうちに、先日、ETV特集(NHK教育)で、夏目房之助氏の案内による、夏目漱石ロンドン留学時代に、「文学論」を著すまでの軌跡をたどった番組を見て、たちまち、『文学論』を読みたくなって机上に置いてある。高校生の時に、読もうとして、いきなり


およそ、文学的内容の形式は(F+f)なることを要す。Fは焦点的印象または観念を意味し、fはこれに付着する情緒を意味す。されば上述の公式は印象または観念の二方面すなはち認識的要素(F)と情緒的要素(f)との結合を示したるものといひうべし。

とあって、挫折したが、今なら、読めそうである。番組の中で、『吾輩は猫である』が、『文学論』で展開した理論の実践の場だったとの指摘があり、余計興味を惹かれた。とは言え、読めるかどうか分からない。


他に、『夜明け前』(島崎藤村)や『放浪記』(林芙美子)が、何かのきっかけで読み始めては置きっ放しになっている。なお、『博士の愛した数式』(小川洋子、新潮社)はすぐに読めた。




科学ものも、途中で挫折したままになっている本が多い。

『科学史年表』(小山慶太、中公新書、2003)は近代科学の歩みを、1601年ティコ・ブラーエの没したところから1項目、1頁足らずでコンパクトにまとめ、科学の流れがよく分かって非常に面白かったのだが、20世紀に入って、科学の中味が難しくなり、気が付いたら、机の奥に納まっている。そのうち読むだろう。

パスカルの『科学論文集』(岩波文庫)は掘り出し物である。「パンセ」で有名なパスカルは、科学者として一流であるだけでなく、その文章が、今に至るも、明晰で、少しも古びていないのである。「真空に関する新実験」は当時(1640年代)トリチェリが示した水銀柱による真空の存在を示す実験を追試した論文だが、創意に充ちた実験をいろいろと工夫しつつ、行っていく有様が活写されていて、読む者を引きつけていく。「科学的文体の典型を示した」という評価がうなずけるのである。とは言いながら、途中で忙事に紛れてしまった。

『確率論の生い立ち』(安藤洋美、現代数学社、1992)も、確率に興味のある方なら、読んでいい書物である。17世紀の賭け事の問題をめぐるパスカル、フェルマーの往復書簡や、ホイヘンスの問題から始まって、ポワソン分布の発見や、中心極限定理まで、数学の中味もしっかり書いてあり、確率論の理解を深めるには恰好だと思う。現在、半分弱の「8. 大数の弱法則」まできた。

まあ、これが、しばらく続いている私の読書である。我ながら、ほめられたものではありませんね。