先日、若い知人と日本橋辺の居酒屋で呑んでいたとき、話が文学に及んだ。知人いわく、「今まで、小説なんか、全く読んだことがないんですよ」。ほんとに何も読んでいないのか、さらに問うてみると、「高校の教科書に載っているやつは読みました。確か『檸檬』という題でしたね」
「どうだった」
「全然面白くなかったですね。その小説は、最後に、主人公がレモンを置いて帰るんだけど、読んでいて、何故レモンなのか分からないんですよ。伊予柑でもいいし、何ならバナナでもいいんじゃないですか。同じ黄色だし」
うーん困った。この知人に「檸檬」の面白さを伝えることはできるのだろうか。これから試みてみよう。
『檸檬』の筋は、語ればまことに単純である。肺尖カタルの病気を持ち、金はなく、友達の合宿を転々として暮らす、惨憺たる生活の若い主人公(多分、旧制高校生)が、不吉な塊で心を圧えつけられたままある朝、京都の街を彷徨い出、途中果物屋に寄って好きな檸檬を買う。そして丸善に入り、棚から抜き出しては積み上げた画集の上に檸檬を置いて出る、というだけの、原稿用紙にして12枚半の短篇である。では何故読ませるのだろうか。描かれているものが、単純ではないからである。
まず、この小篇の時間の流れを見てみよう。過去と現在を自在に行き来する作品の時間を。
小説は、作者の分身である主人公が、過去のどん底の状態を回想して始まる。ここを起点としよう。
その回想は自分がひきつけられる「みすぼらしくて美しいもの」を次々と羅列していく。時間は、起点から微妙にさか上ったり、戻ったり、わざとあいまいになっている。びいどろを嘗めた幼い時の記憶にも触れる。一瞬、起点より前、「生活が蝕まれていなかった以前」を振り返る。好きだった丸善を紹介するためである。しかし、起点においては、もう「重苦しい場所に過ぎなかった」
そして、起点からしばらくしてのある朝、京都の街へと歩み出し、果物屋の前で足を留める。そこで、夜の美しい店の様子がしばらく描写される。読者はいつの間にか、今の時間が朝なのか夜なのか、錯覚させられるのだ。
檸檬を買った主人公は、長い間、街を歩き、作者は檸檬について記述する。その中でも自在な時間の往還がなされている。まず、檸檬の冷たさに触れながら、「その頃」の身体の状態に及び、果実を鼻に持って行って嗅いでは、昔習った漢文にあった「鼻を撲つ」という言葉を思い出す。そしてまた、歩いている現在に戻り、檸檬の匂やかな空気を吸い込む。
こうして、主人公は、丸善へと入って行く。
まことに短い分量なのだが、回想の起点から自在に時間を上がり下がりする小説の構成が、作品にリズムを生み、読む者を知らずに作品世界へと引き込んでいくのだ。
この時間の推移を表に示した。
時間 | 状況 |
その頃 | 主人公が回想している時期 |
幼時 | びいどろと幼時の記憶 |
その頃よりも前 | 生活がまだ蝕まれていなかった以前 |
ある朝 | その頃と連続している日の朝 |
その頃のある夜 | 果物屋をその頃の夜訪ねる |
その頃 | 肺尖を悪くしていた頃 |
若い学生時代 | 漢文を習った頃 |
その頃 | 檸檬の感覚がしっくり |
ある朝の続き | 丸善に入る |
その頃より以前 | 画本にひきつけられていた |
ある朝の続き | 檸檬を画集の上に置いて帰る |
梶井の作品はどれもそうなのだが、この処女作においても、使われている言葉が贅沢であり、直喩の効果的な活用が華やかなのだ。小説を読む楽しみの基本である。
沢山の物、家具や文具、遊び道具、化粧品、果物、書物たち、主人公の気に入っている品々が小説のなかに鮮やかにはめ込まれていく。
「私の好きであった所は、例えば丸善であった。赤や黄のオードコロンやオードキニン。洒落た切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色やひすい色の香水壜。煙管、小刀、石鹸、煙草。」
こんな具合である。読者は、主人公の境遇のことを忘れ、しばしば、言葉の至福にひたることができる。ここで『檸檬』に出てくる愛すべきものたちの一覧を示そう。全31品目。
洗濯物、がらくた、向日葵、カンナ、蒲団、蚊帳、浴衣、花火(中山寺の星下り、花合戦、枯れすすき、鼠花火)、びいどろ、おはじき、南京玉、オードキニン、切子細工、香水壜、煙管、小刀、石鹸、煙草、鉛筆、乾蝦(ほしえび)、棒鱈(ぼうだら)、湯葉、人参葉、豆、慈姑、檸檬、アングルの橙色の重い本 |
そしてまた、梶井の直喩。それは、言葉に新たな光を当てるフラッシュであり、その直喩に出会った瞬間、読者はハッと目が覚め、意識が立ち上がる。直喩を与えられた言葉は本来の意味とは違う生命を与えられて、輝くのだ。
・背を焼くような借金
・眼深に冠った帽子の廂のように(果物屋の屋根のこと)
・店頭に点けられた幾つもの電灯が驟雨のように浴びせかける絢爛(果物屋)
・レモンヱロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色
比喩ではないが、次の表現も、檸檬の色彩と自らの感受性の共鳴を見事に言語化している。
・見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡鐘形の体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。
主人公は非常に惨めな状況に追い込まれているのだが、上述したような表現に溶かされて、否定的な状況のみが書き込まれるのではなく、むしろ、目まぐるしくスイッチが入れ換わるように、幸と不幸の間の心理が交替で表される。梶井はそうして、「現実の私自身を見失うのを楽しんだ」のであり、「心という奴は何という不思議な奴だろう」というテーマをひそかに描き切っている。
以上、私は『檸檬』の面白さをいくらかは伝えられただろうか。主人公が果物屋でレモンではなく伊予柑やバナナは買わないことは了解してもらえたと思う。この小説は作者が檸檬を買ったことにより成立したからだ。要の一点になっているのだ。
恐らくバナナを買うのであれば、それまでの心情はこの小説とは異なっており、主人公もバナナを食べてしまい、小説にはならなかったであろう。