正月に、書類ファイルを整理していたら私が編集者になって数年後に書いたメモが出てきた。サイエンティスト社を興す前(文中のFEIは米国の百科事典を発行している出版社の日本支社、そこに2年ほど勤めてた)だから28才前後。若書きであるが、早くもヘソ曲がりぶりを発揮して、用字用語について曲解を披瀝している。
これもまた淡路町だよりの一興だと思い掲載する次第である。
私はJM社に入社して初めて、原稿整理や校正を行う際に用字用語を統一するという仕事のあることを知った。それまでは論文中の字違いや用語の統一など思ってもみなかったので、こういう作業のあることが驚きだった。さしたる原理もなく、ただ自身の習慣に依って用字用語の統一を始めてたちまち混乱した。直したつもりが見落としがあって不統一のままなのはまだいいとして、人が変われば字違いへの見解が異なり、校正者を経る度に却って用字用語は不整形になり、微妙な言葉遣いの漢字表記などは統一しようとすると判断に苦しみ混乱は正されなかった。用語の統一を意識的に図ろうとすると、そのことに無意識に書かれた論文が、不統一なりに自然な姿で読まれるのに、不自然な傷をつける結果になりがちである。
さしてFEIに移ったとき、用字用語統一の作業は更に奇妙なものになっていた。そこでは機械的基準によって言葉は計られていた。送り仮名はこう付けるとか、副詞は平仮名にとか、漢字表記と平仮名表記の使い分けとか。また、英文が混じるための、ピリオドやハイフンの使い方など。恰も言葉がシステム化された記号体系で、そこに整合的な規則が貫徹されているかのようにみなす態度は、すぐさま言葉から反響を受け、不都合を生じてしまう。言葉の生きている部分は整合的に据えきれないからである。次から次へと例外が飛び出し、「統一」に追われて、基準に照らして表記を判断する筈が、無限に基準を更新する作業を繰り返すことになる。本来、内容の整合性や、読み易さを確保する為の手段として設定された「用字用語の統一」が、手段そのものを絶えず考え直す処に校正者を立ち止まらせる結果になっている。笑うべき事態ではなかろうか。
かくて私は、用字用語の統一に首を突っ込んで以来、釈然としない思いがくすぶり続けている。言葉は機械ではないのだから、仮に、「統一」が実現されたとしても、それは言葉にとって望ましい、生きた姿であるとは言えない。